猫は太陽の夢を見るか:番外地

それと同じこと、誰かがTwitterで言ってるの見たよ

最近観た映画:『ミッドサマー』『劇場版 ハイスクール・フリート 4D版』

 

・ミッドサマー


『ミッドサマー』本国ティザー予告(日本語字幕付き)|2020年2月公開

2月21日に観た。
とにかく画面が美しい。やはり絵コンテがキマッている映画はよい。ストーリーラインはきわめて単純。人間関係に問題を抱える学生グループが古い因習の残る山村で悲劇に見舞われカタストロフィとカタルシスに至る。あっと驚くどんでん返しだとか、意外な展開ということはほぼ起こらない。こうなるだろうな、こうなったらイヤだな、こうなったら怖いなという展開が矢継ぎ早に繰り出される。観客が「こういう怖いことが起こるに違いない」と予想してしまう画やシチュエーション「だけ」で映像を構成することで、あえて怪奇な造形物や効果音を用いずともじゅうぶんな恐怖感を煽ることができるということを映画全編を通して示している。しかもそれを画面の隅々まで緻密に計算してやっており(空や山はもちろん、花冠の一つから卓上の料理に至るまで歪んだCG処理を施す徹底ぶり)、それでなお成功しているのが素晴らしい。意図することとそれを成功させることは別なのだ。そういう意味で、これは観客のホラー映画へのリテラシーを信頼し、そこに依拠している作品であると言うこともできるか。でも、ストーリーのアイデアのもとにあるのは監督の実体験だとか。怖い。

 

 

・劇場版 ハイスクール・フリート 4D版


映画『劇場版 ハイスクール・フリート』予告編

2月21日に観た。
同題テレビシリーズの劇場版。百合。基本的には学園ものである。今回はテレビ版ではあまり出てこなかった他クラス・他校の生徒の他、いかにも劇場版・OVA版っぽい異国少女キャラも投入され、登場人物はテレビ版よりもずっと増えているはずなのだが、キャラクターの関係性の描き方はむしろテレビ版よりも限定されている。船上の教室内群像劇といった感のあったテレビ版に比べ、劇場版では他のクラスメイトや追加キャラクターたちの存在は後景化し、艦長・岬明乃と副長・宗谷ましろの二人の駆け引きを前面に置いて描く。劇場版オリジナルの脅威として、海上要塞を占拠する海賊集団が登場するが、序盤から丁寧に張られた伏線は中盤以降急速に収束し、その実態もあまり描写されないままで、海賊そのものは話を盛り上げる以上の役割を持つことはない。ここでは世界の危機は岬明乃と宗谷ましろの二人の関係を結び直すための道具立てと化しているのだが(そういえばテレビ版に出てくる「RATtウィルス」も結局劇中でその設定が深掘りされることはなかった)、その点にこそセカイ系百合のお手本とでも呼ぶべき作劇の妙がある。クライマックスの艦船アクションはアニメならではという感じで見もの。

 

 

 

 

しばらくやっていなかったけど、今年はまた映画の感想をぼちぼち書いていこうかなと思います。

 

 

 

 

CiNii 論文 ツイートまとめ ( 2019/03/17,2019/03/19 )

 

 

 

CiNii 論文 ツイートまとめ ( 2019/02/17 )

 

 

 

 

「あやかし」系タイトルの変遷と展開 : あやかしものかくあれかし?

 

あやかしそはなにものぞ 

 

「妖」と書いて「あやかし」と読む。

そして「あやかし」とは、「妖怪」と限りなく近い概念でありながら、単純にイコールで結ばれる存在ではないらしい。

しかもその使用されるフィールドはかなり限定されているという。

じゃあその「あやかし」ってなんなの?

あの海の妖怪とは違うの?

 

とかなんとか今回はそういう話です。

 

「あやかし」と読まれる/呼ばれるものが、最近一部で急速にジャンルを形成しつつある――というのは、特にマンガや小説の分野に関してしばしばいわれるところですけれども(どこでいわれているのだろうというと筆者の脳内の一角だったりするのですが)、でもだからといって怪異妖怪全般を指して「あやかし」と呼ぶことは、別に昨今の流行に限ったものというわけではなくてですね、というあたりのことはついつい問題がごっちゃになりがちなので留意しておきたいというか自戒したい――、と、そんな感じの問題意識を持っているのですよということを提示して、話を進めさせていただきたいと思います。

 

 

参考:

togetter.com

 

上のTogetterまとめの話がTwitter上であったのは今年2017年の夏のことですけれども、そもそものこの話題の発端として、横浜市歴史博物館の今夏の企画展「丹波コレクションの世界Ⅱ 歴史×妖×芳年 “最後の浮世絵師”が描いた江戸文化」(7/29~8/27)において、展覧会タイトルの中で「妖」に「あやかし」とルビが振られていたということが注目されたということがおそらくあったと思うのですが、しかし「あやかし」という語を用いて妖怪全般を指している展覧会自体は過去にもいくつかあったのです。

 

ざっと拾うだけでも、以下のものが見つかります。

 

▼「あやかし」をタイトルに含む展覧会一覧

  • 新潟市美術館 森川ユキエ展 妖かしの無言劇場 1999/12/3-2000/1/16
  • 山梨県立図書館 資料展示「妖怪万華鏡-あやかしの世界をのぞいてみませんか-」 2003/8/13-11/3
  • 板橋区立美術館 江戸文化シリーズ19「妖と艶 -幕末の情念-」 2003/11/29-12/28
  • 町立湯河原美術館 妖たちの饗宴~魑魅魍魎の世界~ 田澤茂展 2005/7/21-9/19
  • 箕面市立郷土資料館 企画展示「「百器夜行」あやかしになった道具展」 2007/5/11-7/30
  • 太田記念美術館 AYAKASHI 江戸の怪し-浮世絵の妖怪・幽霊・妖術使たち- 2007/8/1-8/26
  • 福岡アジア美術館 7F企画ギャラリーA室 妖怪展「妖の園(あやかしのその)」 2010/4/29-5/5
  • 大阪市立博物館 コレクション展「怪(あやかし)~お化けの世界~」 2010/8/3-9/5
  • 桑名市博物館 絆と道の企画展「魂ゆらと妖かし」 2012/5/26-6/24
  • 成蹊大学図書館 企画展示『アヤカシノ世界』 2014/11/17-11/28
  • 千葉県立中央図書館 企画展示「妖怪発見伝~あやかしの世界へようこそ~」 2014/12/20-2015/2/15

※参考:"近年の妖怪系展覧会リスト(仮) - 猫は太陽の夢を見るか" http://d.hatena.ne.jp/morita11/20120919/1348065741

 

一覧を数えてみますと、「妖と書いてあやかしと読む語」を展覧会タイトルに冠している事例が過去すでに5例あったことが分かります。

ですからまあ、今夏の横浜市歴史博物館の用法がことさらに特異だとは言えない、と。

展覧会のタイトルに――それもどちらかと言えば趣味色の強い妖怪展のようなものに、あえて一般の人が読めない言葉を持ってくるというのも考えづらいですので、これはタイトルを設定した側が、これを見た大抵の人が「妖=あやかし」と読める、あるいはその解釈をすんなり受け入れられる、という考えを持っていたからこそ、このようになっているのだろうと思われます。そして実際、それで問題はない。

 

ですが、上記のTogetterまとめでも言及されていますように、「妖」の字で「あやかし」の読み方は、少なくとも現行の辞書には載っていない。

 

たとえば、手元にある『広辞苑 第六版』を見てみますと、

あやかし ①海上にあらわれる妖怪。あやかり。海幽霊。敷幽霊。謡、船弁慶「このお舟には―が憑いて候」②転じて、怪しいもの。妖怪変化。武家義理物語「物の―かやうの事ぞと皆人にあんどさせて」③あほう。馬鹿者〈日葡〉④コバンザメの異称。この魚が船底に粘着すると船が動かなくなり害をするという。⑤(「怪士」と書く)能面。妖気を表した男面。「鵺 ぬえ」の前ジテ、「船弁慶」の後ジテなどに用いる。また三日月・鷹などの同系の面の総称。

とあります。

「怪士」と書く、とはあっても、「妖」の字を当てるとは説明されていません。

 

また読みの問題と同時に「あやかし」の持つ意味のことについても少し考えてみますと、過去の辞書的説明の一例として、1937年刊行の『浮世草子名作集』(藤井乙男 著, 評釋江戸文學叢書 第2巻, 大日本雄辨會講談社)の「傾城禁短気」の注釈には、

貧乏神のあやかし あやかしは船幽霊の類をいひ、轉じて一般に亡霊・妖怪をいふ。こゝは乏神の精霊といふ程の意。(猶あやかしは事物の明ならざることをもいひ、又『日葡辞書』には阿房と間抜ともある)

とあります(739頁)。

広辞苑と『浮世草子名作集』の説明は、ほぼ変わっていないように見えます。

 

まあでもこれだけですと、「あやかし」という言葉が具体的にどういう使われ方をされてきたのか、いまひとつ分かりにくいかもしれません。

ちょっと手っ取り早く共通理解を得るために、過去の文学作品を参照してみたいと思います。

ここでは手近に「青空文庫」を検索して出てきた結果をいくつか引いてみます。

 

青空文庫に見る「あやかし」の用例(抄出)

 

それでも暗い空はいよいよ落ちかかって来て、なにかの怪異(あやかし)がこの屋形の棟の上に襲って来るかとも怪しまれた。

 

岡本綺堂 玉藻の前” http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/480_39601.html

 

しかも眼に恨を宿し、何者をか呪ふがごとき、怨靈怪異(あやかし)なんどのたぐひ……。

 

岡本綺堂 修禅寺物語http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1312_23045.html

 

こう云いながら葉之助は、気の毒そうに苦笑したが、「ははあこれも妖怪(あやかし)の業だな。さてどこから手を付けたものか?」

 

国枝史郎 八ヶ嶽の魔神” http://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/3041_32480.html

 

「あまり姫君がお美しいので妖怪(あやかし)が付いたのでござろうよ」

 

国枝史郎 善悪両面鼠小僧” http://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/43771_19490.html

  

行きね妖怪(あやかし)、なれが身も人間道に異ならず、

 

上田敏 上田敏海潮音http://www.aozora.gr.jp/cards/000235/files/2259_34474.html

  

余吾之介はその魍魎(あやかし)をかきのけるように、思わず二三歩引き退きました。

 

野村胡堂 十字架観音” http://www.aozora.gr.jp/cards/001670/files/56105_56984.html

 

何やら魍魎(あやかし)が、自分の喉首を狙つて居るのを、夢心地に氣が付いたのです。

 

"野村胡堂 錢形平次捕物控 幻の民五郎” http://www.aozora.gr.jp/cards/001670/files/54628_53179.html

 

途端に、のしお頭巾の女の魔魅(あやかし)、すばやく姿を消している。

 

吉川英治 鳴門秘帖 上方の巻” http://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52403_50139.html

 

新九郎は魔魅(あやかし)の声でも聞くように、宙に眼を吊らしてしまった。

 

吉川英治 剣難女難” http://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/56151_60109.html

 

雪のせ笹の金紋が、薄暗いその部屋の隅に、妖魅(あやかし)めいた光を放って――。

 

吉川英治 鳴門秘帖 船路の巻” http://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52406_50143.html

 

そん時だ、われの、顔は真蒼だ、そういう汝の面は黄色いぜ、と苫の間で、てんでんがいったあ。――あやかし火が通ったよ。

 

"泉鏡花 海異記" http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1178_23555.html

 

珍しい事も、不思議な事もないけれど、その時のは、はい、嘉吉に取っては、あやかしが着きましたじゃ。

 

"泉鏡花 草迷宮" http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3586_12103.html

 

実は、此は心すべき事だつた。……船につくあやかしは、魔の影も、鬼火も、燃ゆる燐も、可恐き星の光も、皆、ものの尖端へ来て掛るのが例だと言ふから。

 

"泉鏡花 光籃" http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48404_35157.html

 

…元年申の七月八日、材木を積済まして、立火の小泊から帆を開いて、順風に沖へ走り出した時、一人、櫓から倒に落ちて死んだのがあつたんです、此があやかしの憑いたはじめなのよ。

 

"泉鏡花 印度更紗" http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48387_35154.html

 

 

どうでしょうか。

残念ながら、「妖」と書いて「あやかし」と読ませている例は見られませんでしたが、それでもルビの振り方としてはけっこう自由に行われている感じがあります。

ここだけ見ても、やはり鏡花はかなり好んでこの言葉を使っている印象がありますね。

 

※※ 追記 2017/11/12 ※※ ↓ ↓ ↓

 

この記事の主目的はあくまで小説の書籍タイトルの変遷を見ることにあったということもあり、作品本文での用例についてはあまり細かく調べてはいなかったのですが、その後、「妖と書いてあやかしと読む」例をいくつか見つけましたので、以下に追記いたします。

 

地下の大盲谷、暗黒の二万マイル。その存在は非常に古いころから、想像されもし書かれてもいるが、もしこれが余人の口からでたのだったら、即座に一蹴されたにちがいない。いまは、セルカークも妖(あや)かしに会ったような顔。

 

小栗虫太郎 人外魔境 地軸二万哩” http://www.aozora.gr.jp/cards/000125/files/4317_9673.html

 

あの眼の深い悩み、――声の柔かい魅惑、何も彼もが、一つの妖かしとなって、半十郎の魂を手繰り寄せるのでしょう。赤痣を拭き取った繁代の素顔が、今ではもう、「井上流砲術秘巻」より十倍も大きな魅力となって、グイグイと引寄せます。

 

野村胡堂 江戸の火術” http://www.aozora.gr.jp/cards/001670/files/56091_57064.html

 

たぶん、探すともっとあると思います。

 

※※ 追記ココマデ ※※ ↑ ↑ ↑

 

 

しかし、過去の文学作品の分析はこの記事の目的ではないのです。

ここまではあくまで前提、前置きです。

 

 

ジャンルとしての「あやかし」

 

――で、そういう前提の部分をお話ししたところで冒頭に戻るのですが、上の展覧会の話とはまた別に、ここ数年のフィクションの領域、こと「ライト文芸」「キャラノベ」等の名前で呼称される小説レーベルの作品の中で、いわゆる「あやかし」を題材とした作品がジャンル化しつつある、でもこういうジャンル認識っていつごろから定着しだしたのかイマイチはっきりしないよね、という話があります。

たとえば、富士見L文庫では作品ラインナップのジャンルに「ファンタジー」「ミステリー」「青春/恋愛/お仕事」と並べて「オカルト/あやかし」を掲げています。明確なマーケティングとして「あやかし」をジャンルに持ってきているわけです。

 

そういったライト文芸の作品群の中では、「あやかし」とは いわば妖怪のことをいうのですが、それはしっかりとキャラクター化された存在として登場する傾向があるように思います。人間の登場人物たちと同等に会話し、生活し、ときに厄介な事件に巻き込まれる――おおよそそういった描かれ方をされているイメージがあります。

 

でも、いざ作品の中で「あやかし」という語がどのように使われているかというのは、作品によってバラつきがあり、「妖怪」や「幽霊」「怪異」「怪談」等の言葉と比べると客観的な了解があるようにも思われない。だけど、ジャンルとして見ると意味はなんとなく通じる――それってなんでなのか。

 

また「あやかしもの」ジャンルの形成自体が現在進行中の事象ということもあり、結論がこうだと言い切ってしまうには、まだ時期尚早という感じもします。

 

「あやかしもの」なるジャンルはいったいどういった具合に成り立っているのか。

 

調べる方法としてはそれこそ、ひとつひとつの作品を悉皆的に読み込んでいけばまた見えてくるものもあるのかもしれないのですが、個人でジャンルを網羅し分析するにはなかなか力が及ばない。

 

そこで、インターネット検索で出てくる範囲の情報をいまいちど整理してみようというのが、今回の記事になります。

 

ようやく本題に入れました。

 

以下は、タイトルに「あやかし」を含む小説の一覧です。

一覧の作成には国立国会図書館サーチを使用しました。

並びは年順。

タイトルの列記と分析が目的になりますので、シリーズものは省略して載せています。

 

▼タイトルに「あやかし」を含む小説一覧

 

以上、162タイトルです。

勢いで書いていますので、多少のぶれや雑さはあると思いますが、まあおおよその数の確認ということでご容赦を。

こうして列記してみますと、かつては時代小説と女性向けライトノベル、児童書が地道に名前を連ねていたのが、2010年代後半に入って一挙にライト文芸がそのほとんどを占めるようになっているのが見て取れるかと思います。

 

また、ライト文芸ライトノベルを語るうえで無視できないのがマンガの影響です。

その是非云々については今回はとりあえずおいておきまして、「あやかし」をタイトルに含むコミックスの一覧も抽出してみました。

こちらも小説と同様に主に国立国会図書館サーチで検索をかけ、適宜情報を整理したものです。

小説ほどに数はありませんが、同じく年順に並べています。

 

 

▼タイトルに「あやかし」を含むマンガ一覧

 

以上、69タイトルになります。

あまり確かなことは言えませんが、少女マンガのタイトルにおいて好んで採用されている印象があります。

 

もちろん、上に挙げている作品は、あくまでタイトルに「あやかし」を含んでいるものであり、実際に「あやかしもの」とされる作品はもっともっとありますし、タイトルに「あやかし」の語を使用していても、内容がいわゆる「あやかしもの」には当てはまらない作品というのもまた上記のリストにはたくさん並んでいるかと思います。

 

ですが、今なんとなく成立している「あやかしもの」というジャンルを考えるうえで、そのジャンルが成立するまでに人々が「あやかし」という語にどのようなイメージを抱き、創作に適用してきたかということはささやかながら窺い知ることができるのではないかと思い、この記事を書いている次第です。

 

ジャンルが成立するにはその前史があるはずだと、そういう話だと解釈していただければと思います。

 

 

さて、先ごろ発売された『怪』vol.0051(2017)、特集「アニメと妖怪」の誌面において、「なぜ妖怪は小説、アニメでウケるのか――編集者覆面座談会」という座談会記事が掲載されていました。

その記事によれば、「妖怪」と区別される「妖かし」、キャラクター化された「妖かし」が人気を博すようになったのには、『しゃばけ』と『夏目友人帳』のヒットの影響が大きかっただろうと言及されています。

 

しゃばけ』の最初の単行本が発売されたのが2001年。

夏目友人帳』のコミックス第1巻が発売されたのが2005年。

 

そこにライト文芸が出てきたことで、一気にジャンルとしての「あやかしもの」が形成されていったと、そういった旨のことが誌面では語られています。

 

おおよそその通りなのだろうと思います。

 

また、そこに至るまでには、この記事で述べてきた展覧会や、鏡花を始めとした過去の文学作品や時代小説等が背景としてあったことでしょう。

 

そうしてこれまで妖怪ジャンルに携わってきた多くの読者や創作者の、こうあってほしい、こうなればいい、こんな感じがいいのじゃないかという積み重ねや切磋琢磨諸々があって、今の「あやかし」イメージも出来上がってきたのだろうと愚考します。

 

小説やマンガの話の他に、ゲームや舞台や音楽等の近接ジャンルの事情を加味していくことで、今後よりいっそう理解が進んでいくのではないか――と、そのようなことを期待しつつ、今回はここらで締めさせていただこうかと。

 

だいぶ長くなってしまったわりに大したことを言っていないようにも思いますが……。

 

それでは。

 

 

 

補足:

togetter.com

 

最近観た映画 : 『マジカル・ガール』

 

『マジカル・ガール』

Magical Girl

5月8日に観た。

この映画の印象を一言で言い表せば、不穏。それに尽きるだろう。

Googleの画像検索で「magical girl 」と入力すると、検索結果には『魔法少女まどか☆マギカ』とか『美少女戦士セーラームーン』とか『アイドル魔法少女ちるちる みちる』とか『魔法 中年 おじまじょ5』とかが上位に出てきて、その結果はどの言語環境設定においてもたいして変わらないのだが、こうして見ると少なくともネット上ではmagical girl=魔法少女のイメージは日本のポップカルチャーのそれと直結しているらしいということが感じ取れる。

そういった日本的なポップでカワイイ「魔法少女」イメージとはおよそかけ離れたところにあるのが映画『マジカル・ガール』である。

 

ここで最近のスペイン映画作品と比べながら感想を書いたりするとカッコイイのだろうが、あいにくそちらの知識は持ち合わせていない。なので、自分にとって身近な日本のアニメとの関連で書いてみる。

 

カルロス・ベルムト監督は、『マジカル・ガール』における日本の作品からの影響について、『魔法少女まどか☆マギカ』のダークな部分にも影響を受けているとインタビューで述べている*1

まどマギ』の作中では、キュウべえが「魔法少女」の設定について「この国では、成長途中の女性のことを、少女って呼ぶんだろう?」「だったら、やがて魔女になる君たちのことは、魔法少女と呼ぶべきだよね」と言及する台詞があった(アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』第8話「あたしって、ほんとバカ」より)

『マジカル・ガール』では、白血病の少女アリシアは、魔法少女のようにいろんな姿に変身したい、魔法少女ユキコのコスチュームが欲しい、そして13歳になりたいという願いを持っている。しかし余命幾許もない彼女にとってそれらはどれも難しい願いである。

アリシアの父親ルイスは娘の願いをなるべく叶えてやりたいが、多額の資金を工面出来ずに苦悩し、結果偶然出会ったバルバラを脅迫する。

現在は精神科医の夫に養われているバルバラは、ルイスから大金を要求されると裏社会とのつながりを利用した自己犠牲によってそれを解決しようとする。

映画の冒頭では少女時代のバルバラがマジック(手品)で教師を挑発するシーンが映し出される。元教師ダミアンはバルバラとの関係から刑務所で10年間の服役をしており、そして出所した今も彼女のことを恐れているが、彼らの間に過去いったい何があったのか映画の中で具体的に明かされることはない。

キュウべえの台詞と照らし合わせるならば、「魔法少女」に当たるのはアリシア、「魔女」に当たるのはバルバラと言えるだろうか?

 

 「魔法少女」は己の願いを自らの力では叶えることは出来ない。願いを叶えた「魔女」は結果的に破滅をもたらす。

「だったら、やがて魔女になる君たちのことは、魔法少女と呼ぶべきだよね」

やがて魔女になる。この言葉がこんなにも不穏に響く作品もなかなかないだろうと思う。

 

型にはまらない物語は奇をてらったふうにも受け取れるが、海外で日本文化がこのようなかたちで受容されているというだけでも興味深い。

それら奇抜な要素を抜きにしても、ワンシーンワンシーンの緻密に計算された画面の美しさは視覚的に十分な満足感を与えてくれる。

 

 

アニメ『CLANNAD』を見た話

 

雑文。

アニメ『CLANNAD』『CLANNAD~AFTER STORY~』を見たのは昨年の秋ごろであった。

さんざん語られたこの作品に関して今更感のある視聴だったが、それをこのタイミングで記事にするのもかなり今更感がある。

 

しかし実際に全話通して視聴してみて、こんなにも幻想的で都市論的示唆を含む作品だとは思っていなかった。

原作ゲームは未プレイなのだが、アニメ『CLANNAD』(第1期)および『CLANNAD~AFTER STORY~』(第2期)の物語のテーマの大きな骨子となるキーワードは、ひとつに、変わるものと変わらないもの(そして変わらずにはいられないもの)であるだろう。

そのことは、第1期冒頭の(そして折に触れて繰り返される)古川渚の劇中劇の台詞にも明示されている。

「この学校は好きですか?私はとってもとっても好きです。でも、何もかも変わらずにはいられないです。楽しいこととか嬉しいこととか全部、全部変わらずにはいられないです。それでもこの場所が好きでいられますか?」

それに対して主人公・岡崎智也は次のようにこたえる。

「見つければいいだろう。次の楽しいこととか嬉しいことを見つければいいだけだろう。ほら、行こうぜ。」

この何気ない応答の台詞は今後のストーリーにおいて他でもない智也自身が痛感することになる。

 

都市論的には、郊外の再開発時期と主人公の成長の対比がある。

主人公の心情と舞台となる町。

両者の変化が連動するストーリー展開。

物語の舞台となっている町はさして大きな建物もなく住宅の立ち並ぶ郊外だが(そしておそらくはすべてのロケーションに“聖地”となっているモデルがある)、田舎から出てきた中学生が都会的だと感じる程度には繁華で(第1期春原兄妹編で言及される)、休日に若者がショッピングを楽しむことのできる規模の商店街や不良がたむろするような歓楽店の並ぶ区画もある。

だが、ひとの噂が瞬く間に広がってしまう程度には小さな町(実際、第2期で主人公の父親が警察に捕まった際には即日彼の働き口に影響が出ている)。

第1期冒頭では空き地の光景が目立ち、いかにも何もない町が特徴的に、しかし取り立てて強調されることなく描写される。

それはOPで曲を背景に流れていく断片的な町のショットからも印象づけられる。

一方、主人公が高校を卒業し、就職し、家族を見つけていく第2期では、緑地に大きな病院の建設される話が取りざたされ(物語終盤ではすでに病院が出来上がっている)、通学路の雑木林はファミリーレストランになり、学園編の主要舞台となった高校の旧校舎が取り壊されるという話が出ている。

それら町の変化に対する主人公の動揺。

周囲と自分自身の変化をどのように折り合いをつけ、受け入れていくのか。

物語が進むにつれて都市論的な演出が目立っていくが(とくに第2期において)、京都アニメーションの緻密なロケーション描写がそれを際立させている。

 

幻想性という点では、ひとつに、現実世界とそれに並行する隠された幻想世界のようすがたびたび差し挟まれるストーリー、またひとつに、幽霊とも生霊ともつかない自在なキャラクターである伊吹風子の存在の、おおきく2つが挙げられるだろう。

どこまでが夢でどこまでが現実なのか。

そしてどこまでがこの世界で起こった出来事なのか。

それがずばりはっきりとは示されず、曖昧な部分を残すような見せ方が不思議な世界観を成り立たせている。

 

最終回では智也と渚と汐、そして町のひとびとの幸せな日常が映し出されるが、その光景がセリフなしのダイジェストで流れるところも幻想的魅力を増す。

――果してこの幸せな世界は本当に起こった出来事なのだろうか?

そういう不安がよぎる。

もちろんその後の「総集編」において、主人公の回想というかたちで最終回ラストはきちんと悲劇が回避された世界線であることが語られるものの、いったいどこまでが“ありえた世界”なのか? という独特の余韻を残す構成となっている。

物語の締めくくりを飾るのが、現実世界パートにおいてもっとも幻想度の高いキャラクターといえる伊吹風子の再登場というのも象徴的だ。

しかもそのラストはかつて幼い渚が危機に陥ったことのある緑地跡に建てられた病院の場面であるというのも、この物語が何を乗り越え、受け入れていく話であったのかを端的に指し示している。

物語の登場人物たちはみな不良だったり病弱だったりと、何かしらコミュニティからつまはじきにされていたり疎外感を感じているが、一貫してそれをすくい上げようとする視点にもグッとくる。

 

 

CLANNAD Blu-ray Box

CLANNAD Blu-ray Box