猫は太陽の夢を見るか:番外地

それと同じこと、誰かがTwitterで言ってるの見たよ

最近観た映画:『リゾートバイト』、『ゴジラ-1.0』

 

 

なんだかすっかりこのブログが民俗学者キャラクターまとめブログになってきているので、たまには映画の感想なども書いておこうと思う。

 

 

・『リゾートバイト』

11月1日に観た。「2020年の『真・鮫島事件』、2022年の『きさらぎ駅』に続く「ネット都市伝説3部作」の最終作」(Wikipediaより)。評判にたがわぬB級ホラーだった。原作のネット怪談「リゾートバイト」を導入として、「禁后」「八尺様」「寺生まれのTさん」などの要素を取り込み、これに大胆にも君の名は。』(2016)パロディを組み合わせ、最後はヒトコワで〆る……というネットで見たネタを全部放り込んだような内容にはおなかいっぱいを通り越して胃もたれを覚える。話の筋は確かにホラーではあるのだが、全体ではもはや恐怖を志向してはおらず、いかにネタをたくさん盛り込めるかに主眼が置かれている。B級映画としてはまずまずの出来であろうし、それなりに面白い物を見たという余韻もあるのだが、これは映画単体の完成度というよりも、「ネットで見た話がたくさん映像化されていて嬉しい!」という、鑑賞者のネット依存度に大きく左右されるたぐいの感覚ではないだろうか。繰り返すがあくまでこれは低予算なことが明らかなB級ホラー映画であり、ストーリーや映像のレベルは決して高くはない(というかはっきり言って低い)。とりわけメインの怪異である八尺様の造形の稚拙さはそれだけでこの映画全体の評価を下げてしまうくらいの残念な代物。しかしあのハリボテ八尺様のデザインにもなんとなく既視感が漂っており、特に動きのぎこちなさは劇場霊』(2015)の呪いのマネキン人形を彷彿とさせる。とにかく何かしらどこかで見たことがあるネタの集合体のような映画。かと言って、オカルト映画として見るべき新規性がまったくないかというとそういうわけでもなく、特に視点人物によって霊が視えたり視えなかったするという霊感の設定を、精神入れ替わりネタと組み合わせたところなどは、後半のドタバタ感を演出するのに上手く作用していて秀逸。
有名なネット怪談の映画化ということで、話の種は広く明かされてしまっている。誰もが知っている題材で未知の恐怖を感じさせることは難しい。では、みんなが知っているネタを全部組み合わせてしまえば、逆に誰も見たことがないものが出来上がるのではないか──。発想は理解できるが、それでこうして一本の映画をつくってしまうのはあまりに強気な姿勢。永江二朗監督にはこの方向性でぜひカルトなギャグ映画を撮ってほしい。
映像面では、おそらくドローンによって撮影されたであろう、上空から見た瀬戸内海の風景が美しく、これは単にロケーションの勝利とも言えるが、『きさらぎ駅』(2022)の草原の空撮シーンの仄暗さを思い出すと、むしろ監督のセンスによるところが大きいのだろう。

 

 

・『ゴジラ-1.0』

11月3日に観た。かなりヘンな映画であるというのが第一印象。大筋は戦後間もない日本にゴジラが襲来して都市を破壊する……という従来のゴジラ映画の定型を逸脱せずごくごくシンプル。キャストからしてもっと恋愛感動劇を狙ってくるのではないかと身構えていただけに少々肩透かしを食らったような感触を受けた。
物語としては、戦争から帰ってきた元特攻隊員の主人公が、自分だけが生き残ってしまったことへの後悔とトラウマをゴジラとの闘いを通して克服していく……という主軸があり、ゴジラも戦争のトラウマの象徴として登場する。で、それはそれで全然いい。いいのだが、しかしそれでは何がそんなにヘンなのかと言うと、それは物語の舞台となる昭和二十年代という時代を表す要素が作中で少々偏っているのではないかというところにある。
この映画は終戦直後の占領下の日本を舞台としている。にもかかわらず、当時の実在した人物や事件はほとんど物語に関係してこない。あえて挙げるとすれば、ゴジラ復活の契機となったクロスロード作戦は重要な要素となっているがそれ以外の歴史事象はほとんど本筋に影響してこない。農地改革も選挙法改正も天皇人間宣言公職追放東京裁判も新憲法発布も話になんら関与しない。ダグラス・マッカーサー吉田茂などのいわゆる教科書に出てくるような、誰もが知る歴史上の有名な権力者もひとりとして登場しない(厳密にはマッカーサーは資料映像の中に一瞬その姿が映るが登場人物としては出てこない)。これを単に娯楽重視ゆえの政治色の排除と見ることも可能だろう。だがまあ普通に考えてそれはちょっと安直というもので、アメリカも日本政府もアテにならないから民間の人間だけでゴジラを倒す! 今度こそみんなで生き残ろう! ……というのが劇中で唱えられる大まかなスローガンであることを踏まえると、進駐軍の軍人やら政府関係者やらが話に絡んでこないのは意図された設定であるのだろうし、それこそがこの映画の政治色と捉えるのが妥当だろう(そのために持ち出される方便が「アメリカ軍はソ連の動向を警戒して動けない」&「日本政府は事実を隠蔽してやり過ごそうとしている」だけなのはさすがに諸々を省略しすぎと思うが)。
しかし、このスローガンの描き方にもどこか歪さがある。
確かに、ラストまで見ればこの映画に反・自己犠牲のテーマがあることは理解できる。だが、そこに至るまでの過程でストレートな熱血スポ根セリフがひねりなくバンバン繰り出され続けるために、それがどんでん返しの仕掛けと分かってはいても、話の進行中はむしろ結果のためには自己犠牲もやむなしとみなしてしているかのような印象を見る側に与える。基本的に軍人たちの物語であるとはいえ、いたずらに愛国心を煽りかねない話運びに留保がない点にも不安が残る。というか、全体的に整合性よりも場面の分かりやすさが優先されているようにうかがえた。もちろんエンターテイメントなのだから分かりやすさが優先されるのは当然なのだが、最初から最後まであまりに予定調和がすぎるのには引っかかりを覚えざるを得ない。いや、予定調和でもご都合主義でも話が面白ければ別にいいっちゃいい。怪獣と人間が戦う物語はご都合主義がなければ成り立たない。それは重々分かっているつもりなのだが、それでも全体を通して見るとやはり何かが引っかかる。そういう引っかかりポイントがこの映画には、結構ある。
一方、映像面のクオリティはかなり高いレベルにあるという評判には同意することにためらいはない。画面いっぱいに暴れまわるフルCGゴジラの躍動感は素晴らしく、空襲で焼け野原となった東京をさらに焼け野原にする大怪獣ゴジラVFXは圧巻の一言。予告編でも流れていた白昼の銀座襲撃シーンに加えて、特に前半・中盤・終盤にそれぞれ配置された海上の戦闘シーンには目を見張るものがある。歴代ゴジラ映画は数あれど、ゴジラが軍艦を咥えてぶん投げる作品にはなかなか出会えない。
……で、まあすごいことにはすごいのだが、それらの映像のすごさが全体のストーリーとかみ合っているかというとそこは賛否が分かれるのではないだろうか。なんというかこの映画、人間パートと怪獣パートが上手くつながっているようにはあまり思えないのだ。
誤解のないように言い添えておくと、別に人間パートが長すぎるとか怪獣パートが短すぎるとかそういうことを主張したいのではない。人間ドラマに重きを置く怪獣映画があってもそれはそれで何も問題はない。問題があるとすれば、人間が出ているパートと怪獣が出ているパートとが話の中でくっきり分かれすぎているところにあるのではないだろうか。そもそも人間パートと怪獣パートみたいな感想がすんなり出てくることからして何かおかしい気がする。しかしこの映画に限っては、ここからここまでが人間パートでこっちは怪獣パートだと誰もが判別できるくらいには、人間がメインの場面と怪獣がメインの場面が分離している。
確かに、この映画のゴジラはすごい。一瞬で都市や兵器を粉々に破壊するし、無数の人間がなすすべなく踏み潰されて死んでいく。そういう惨劇は映像で明確に描かれている。しかし、それほどの破壊の限りを尽くしていて、物語内の日常生活や人間関係までもがすべて破壊されていたのかというと、なぜだかそういう感じは薄い。いやいやあれだけ派手に破壊と蹂躙が描かれているのを見てその感想は淡白すぎるでしょと思う向きもあるかもしれない。が、そういう問題ではないのだ。
物語の後半、神木隆之介演じる元特攻隊員の主人公は、ゴジラによる大量殺戮を目の当たりにして徐々に死をも恐れぬ復讐者に変貌していく。ここの、絶望と悲壮感がじわじわと増していく演出は正直上手い。上手いのだが、しかしそれは戦争体験者の悲劇というよりもどちらかと言うとデスゲームに巻き込まれたプレイヤーのような、実に個人的な絶望の描き方のように感じた。主人公がつぶやく「その怪物は許しちゃくれない」というキャッチコピーも、予告編で聞くとあたかも過去の日本が起こした戦争全体への反省を促すメッセージを含むかのようにも聞こえるのだが、本編を見るとそれはあくまで主人公ひとりの内面に訴える鬱屈とした心の声以上の意味を持たないように感じた。これはなにもこちらの受け取り方だけが原因ではないのではないか。
というのも、この映画では、ゴジラ上陸の前と後とで、主人公を取り巻く世界の環境や世相にさほどの変化が読み取れないということが大きくある(好意的に解釈すれば、世相を気にする余裕がないほどに主人公の精神が追い詰められているという主観の反映なのかもしれないが……)。何度も言うが、ゴジラの映像的なインパクトは確かにすごい。しかし、ゴジラの恐怖を受けてあの映画の中の日本は何が変わったのか、それがよく分からない。銀座や永田町があれだけ甚大な被害を受けた後も役所は機能しているようだったし、焼け跡では飲食の屋台が変わらず営業を続けている。電気や郵便等のインフラや食糧事情が悪化した様子もなく、ゴジラを恐れた民衆がパニックに陥っている気配もない。国会議事堂が吹き飛んだ後の日本政府の扱いがどうなったのかも不明である。ゴジラの襲来によってあの世界の日本はどのくらい「ゼロ」から「マイナス」になったのか。主人公のミクロな視点からだけでは、そのあたりの事情は読み取りにくい。場面それぞれの映像は豪華だが、場面と場面をつなぐ描写は不足している。だから、まるで人間と怪獣でドラマが分かれているように見えてしまうのではないか。そのように思う。
では、いったいどうしてこのようなかみ合わなさが発生してしまうのか。愚考するにその理由のひとつは、この映画が戦後日本を描くに当たって、歴史改変の要素を、人間ではなく兵器の中に見出しているからではないだろうか。歴史改変。歴史If。もしこの時代にこうなっていたら。もしあの時代に○○があったら。そういう「もしも」の要素。この映画の場合、もし戦後の日本にゴジラがやってきたとしたらどうなるのか、という部分。そういう歴史創作の醍醐味は、この映画ではまるごと軍艦や戦闘機に託されている。この物語では、当時の日本政府やアメリカの実態はぼんやりとしか分からない。それに対して、復活した旧日本軍の兵器の活躍は縦横無尽に描かれる。史実では自沈処分されるはずだった重巡洋艦高雄がシンガポールからはるばる駆けつけてゴジラに砲撃を浴びせ、こちらも史実では連合国に接収された駆逐艦雪風や響、夕風などがゴジラ討伐のために再度集結し出撃する。国会議事堂の前では四式中戦車が列をなしてゴジラを迎え撃ち、クライマックスでは改造された戦闘機震電が主人公を乗せて空へ飛び立つ。現実ではとっくに役目を終えたはずの兵器が戦争のやり直しをするという、懐古的で復古的なロマン。ここにロマンを感じさせるのに、史実の兵器の名前を知っているかいないかはあまり関係はないと思う。なんなら出てくるのが実在の兵器と分からなくてもいい。要は旧時代のやり直しをやっているという雰囲気が伝わればいいのだから。
歴史のIf要素は兵器がその大部分を引き受けている。ゆえに、物語の舞台が占領下の日本であっても歴史上の人物は登場する必要がない。マッカーサーゴジラ出現にどのような判断を下すかだとか、吉田茂ゴジラ上陸に際しどう立ち回るかだとか、ましてや昭和天皇ゴジラに何を思うかだとか、そういうことを一切描くことなく、無名の民間人だけでゴジラを退治することができる。エンタメドラマで下手に歴史や実在の人物に関する解説を挟むと話のテンポが悪くなってしまうのではという危惧を伴いがちだが、復活した兵器の解説シーンはそれだけでロマンを補強する演出となる。自衛隊の最新兵器ではなく大日本帝国軍の旧兵器でゴジラと戦う。物語のすべての動線がそのために引かれている。そういう理屈で成り立っているのがこの映画と考えることが出来そうだ。人間ドラマにおまけ感が出てしまうのも、戦後の東京に戦中の架空戦記を持ち込んだ際に生じた齟齬ということなのだろう。この辺りについては、現代ミリタリー・カルチャーの視点から何かもっと言えることがあるかもしれない、という感想も思い浮かぶがミリタリー知識には疎いのでよく分からない。
しかし、自衛隊アメリカを介さない状態での旧日本軍とゴジラの対決シーンを実現するには、確かにこの時代とこの設定しかないのかもしれない──そう思わされたのも事実だった。そういう説得力と勢いが、この映画にはある。
そう、とにかく勢いはあるのだ。その勢いにまかせて、終始カッコイイ画面づくりと強引な展開が連続する。それでいて全体に大きな破綻はない。結果、見終わったときには一定の満足感が得られるようになっている。そういうふうにつくられている。剛腕な作劇と言っていいだろう。
しかし、それを了解した上で見ても、なおちぐはぐな印象は拭えきれない。ツッコミどころをあえて用意しておくのも大衆受けするための手法のひとつなのかもしれないが(佐々木蔵之介が何度も「やったか!?」を連呼する点などは用意されたツッコミどころだろう)、この映画に関してはそれだけが理由とも思えない面が多々ある。怪獣、アクション、ミリタリー、人情噺、恋愛劇、歴史、政治、SF……そういった複数の要素を有機的に組み合わせてひとつの物語に仕立てるのはやはり難しいことなのだろうか。どこかを取るとどこかがおろそかになるのは仕方のないことなのだろうか。そういうもどかしさが残る。
いろいろ言いたいことはある。この映画が傑作か駄作かはここでは判断しかねるが、自衛隊映画ではないゴジラ映画がつくられたという点だけ取ってもその意義はあるのではないか。
……それはそれとしてあのオチはゾンビ映画とかでやるやつじゃない?