猫は太陽の夢を見るか:番外地

それと同じこと、誰かがTwitterで言ってるの見たよ

最近観た映画 : 『さよなら、人類』、『ガールズ&パンツァー 劇場版』、『ハーモニー』

『さよなら、人類』

ポスター A4 さよなら、人類 光沢プリント

11月1日に観た。

スウェーデンロイ・アンダーソン監督の「人間についての3部作」の完結作。前の2作は未見。

劇中のひとびとの顔が妙に白っぽく見える(そしてそれが作品世界がこの世のものでないような雰囲気を演出している)のは何故かなと思ってパンフレットにもとくに書いていなかったので帰ってからググったら「登場人物たちの顔が白塗りなのは、表情を表に出さず、身体で感情を表現する日本の「能」の影響からです」という監督のコメントが日本語で出てきた。IT社会(死語)。

 

ガールズ&パンツァー 劇場版』

ガールズ&パンツァー劇場版 2016カレンダー

11月25日に観た。

TVシリーズはリアルタイムでは見ていなくてかなり最近になってDVDとCATVでまとめて見たのだが、TV版より火薬マシマシの砲撃戦は劇場で体感してこその迫力。容赦なくぶっ放される砲弾とためらいなく破壊される市街地のカタルシス。惜しみない総火力。音響が体に響く響く。謎カーボンの謎を信じろ(ていうかあの世界の実弾は本当に現実の実弾と同じ概念のそれなのだろうか?)(※追記:あとで調べたらどうも現実の実弾と同じ概念のそれではないハイテクノロジーの産物らしいですね。なるほど) *1

従来の登場人物に新規キャラ、そして何より各校の戦車それぞれに出番があり、それでいてとって付けた感がほとんどないのは見事だった。ほかにも海沿いの木造校舎での臨時の仮生活とか西住姉妹の幼少時の夏の思い出とか、ファンの期待を裏切らない造りとはこういうことを言うのだなと感慨深い。映画に関してはこれで今年の悔いはもう何もない。

 

『ハーモニー』

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

11月25日に観た。

 百合系雰囲気SF映画。個人的にはおおむね楽しんで見られた。まあ、原作:伊藤計劃というクレジットだけですでにハードルが上がっているわけで、よっぽどうまく作らない限りSFファンからの批判は免れなかったであろう作品。

内容に関しては肝心のSF描写が甘いというのも事実そうなのだろうが、御冷ミァハの「ただの人間には興味がないの」という例の台詞は本人が教室で言っているところを正面から映さないとパロディの意味がないだろ! 等々憤りを覚えた向きは三巷文のコミカライズ版を読もう。

皮肉になるようだが、ではひとつの映画として駄作と言いきれるかというと難しく、SF的な細かい矛盾や原作との相違をとくに知らずに見ればむしろ映像作品としてのクオリティは高いんじゃないだろうか。

原作では物語序盤に語られていたミァハとトァンの学生時代のやりとりが、映画では断片的な回想として要所要所に差し挟まれるなど構成上の工夫は見られるし、独立した作品としての「お話」そのものは全否定されるほど悪くはなかったと思う。ただ、それらの工夫が果たしてうまくいっていたのかどうかはあやしく、例に挙げた回想シーンなどはどうも過去の現実の出来事というよりもミァハとトァンの心象風景もしくは新房昭之的・シャフト演出的な記憶を再構成した映像だったのではないかという印象を受けた。

また、背景美術が美しいだけに登場人物の衣服や建物等のSF的ガジェットのデザインがいまひとつ洗練されていないあるいは考証不足なのもどうにも浮いている。

原作準拠で見れば映画のラスト改変には異論があるだろう。しかしあくまで単体の作品として見れば、あれはあれでありなのではないかと思った。意識が失われた世界の到来を告げる幕引きの仕方もよかった。......だがやはり、納得に足る世界観の魅せ方という点ではガルパンに負けてる感が強い。

繰り返すが、個人的にはおおむね楽しんで見られたのだ。ホントだってば!

あと、「Project Itoh」は真相に迫る途中で死ぬロシア人キャラをCV三木眞一郎にするノルマでもあるのか。

 


『ハーモニー』のノリがありなら『不動カリンは一切動ぜず』をアニメ化しようぜ。

 

 

 

最近観た映画 : 『心が叫びたがってるんだ。』、『屍者の帝国』、『リトルウィッチアカデミア / リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』

 

『心が叫びたがってるんだ。』

小説 心が叫びたがってるんだ。 (小学館文庫)

 10月9日に観た。

正直に言うと公開前から公開期間中までに繰り返された、いかにも泣かせにきている、あるいは感動の押し売り的な、もしくは男女のカップルで見に来ることを前提としているかのようなコマーシャルの仕方が苦手と言うか少々鼻についたのは事実だったが、内容は至極よかった。

岡田磨里脚本作品だがハートフルボッコな雰囲気は抑制され、しかしベタベタのラブストーリーになることはなく、全体的にどことなく暗い不安定さを感じさせる。そういう独特のドキドキ感があった。

演劇や部活を題材としたアニメの、本番直前になってヒロインが怖気づいているところを男の声によって奮起するという王道の展開を踏む一方で(ごく個人的な事情だがつい最近『CLANAD』と『電波女と青春男』を見ていてどちらの作品にも似たシチュエーションが出てきたのだった)、恋愛ものにおける男側の鈍感さ、優柔不断さが、男女の関係に対してある種のミスリード的な役割を果していて巧み。

個人的には『あの花』より好きかもしれない。

余談だが、黒ストッキングをはいた脚の描写に、他の人体表現に比べてフェチズムを感じたのはおそらく気のせいではないと思うが、どうか。

 

屍者の帝国

屍者の帝国 (河出文庫)

10月14日に観た。

この作品に関しては公開前から各所ですでに相当語られている感があるのでいまさら何か書くのも気が引けてしまうのだが、原作『屍者の帝国』を大胆にカット・改変しつつファンの期待を裏切らない造りになっていたと思う。

何よりスチームパンクアニメ映画として傑作の部類に入るだろう。『スチームボーイ』、あるいは『メトロポリス』あたりの作品と並べて見たい。

あと、パンフレットが銀ピカでビビった。

  

リトルウィッチアカデミア / リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』

『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』主題歌「Magic Parade」

10月14日に観た。

 TRIGGERらしい疾走感ある映像表現がギュッとつまった佳作。

詳しい世界観とかどうなってんだろ? というような疑問を勢いでぶっ飛ばしていく爽快感があるが雑なわけではなく、アナザーストーリーがいくらでも作れそうな印象。

カートゥーンっぽさがやや強めでアメリカの上映で大好評だったというのも納得。

主題歌がけっこう好きだ。

 

 

 

 

アニメしか見てねえ。

 

 

 

 

最近観た映画 : 『約束の地』、『バケモノの子』

 『約束の地』

約束の地 [DVD]

9月1日に観た。 

パンフレット等には「日本人にとってはまさに“この世の果て”というべき荒々しくも神秘的な絶景をバックに(...)」とあって、たしかにロケ地となっているパタゴニアとアルゼンチンは地理的に日本から最も遠い土地ではあるが、荒涼とした岩盤の続く傾斜地を延々と登り続ける描写は、むしろ欧米のひとびとの想像する“この世の果て”のイメージを強く反映しているように思われた。観るひとに多くの解釈を問いかける作品。

 

『バケモノの子』

バケモノの子 (角川文庫)

 9月11日に観た。

とにかく映像のクオリティが圧倒的。少年が居場所を求めて成長していくさまがひじょうにスピーディーに描かれ息つかせない。登場する「バケモノ」たちがバケモノと言いながら総じて動物モティーフに限定されているのが寓話性を高める(そもそも英字タイトルが"The Boy and The Beast"なのであるから)。ただ、これまでの細田守監督作品に比べて主要ターゲットの年齢層をやや低めに設定しているように感じた(漠然と受けた印象は「どことなく『少年ジャンプ』っぽい」だったりする)。そのせいか(...はわからないが)登場人物たちがいかにも主人公の成長のために配されている感は否めないが、それらを差し引いても今夏アニメ映画のかなりの良作であることは間違いない。これは誰かも言っていた気がするが、リリー・フランキーのやさしく昔話を語りかけてくるような声が存外いい。

妖怪と宇宙人となつかしさのカタチ : 青田めい『うにうにうにうに』

「宇宙人」兼「妖怪」というキャラクター 

うにうにうにうに (1) (まんがタイムKRコミックス)

うにうにうにうに (1) (まんがタイムKRコミックス)

 

  

うにうにうにうに (2) (まんがタイムKRコミックス)

うにうにうにうに (2) (まんがタイムKRコミックス)

 

青田めい 『うにうにうにうに』は、河内家に居候させられることになった〈うに〉、河内家長女の〈ユキ〉 、末っ子で中学生の〈いわな〉、いわなの双子の姉〈やまめ〉、そしてうにの姉〈なまこ〉を中心とした日常系4コママンガである。

  ある日、ユキ姉ちゃんが外で拾ってきたのは、地球で迷子になった、「宇宙人」兼「妖怪」兼「ちびっ子」の“うに”だった。家族のいる宇宙に帰りたい“うに”と、帰したくない河内家のドキドキ同居ライフ第1巻!

(『まんがタイムきらら』作品紹介ページより)*1

 

本作品は登場人物のひとりである〈河内いわな〉の以下のような伝奇風モノローグから始まる。

晩ごはんを食べていると いつの間にかおかずが減っている事がある
それをいつも俺は3人いる姉の誰かのせいにしていたけれど
どうやらそれだけではないらしい

(1巻より)*2

いつの間にか食卓のおかずが減っている。それはいわなの姉〈河内ユキ〉が家に(無理矢理)連れてきてしまった〈うに〉の仕業であった。

  •  人に気付かれずおかずを1品ぬすむ
  •  人のソデをひいていたずらする*3

これら2点が「妖怪」としての〈うに〉の能力なのである*4

 

『うにうにうにうに』のメインキャラクター〈うに〉は「宇宙人」兼「妖怪」兼「ちびっ子」であると設定されている。

「宇宙人」兼「妖怪」であることの背景は以下のように説明される。

むかしむかしうんと昔 地球に宇宙人がこっそりやって来ました

宇宙人は地球人に色々な名前で呼ばれるようになり 日本では妖怪・幽霊と扱われるようになりました

でも最近の地球は空気も汚れてきたので 「そろそろまた別の星に行くか~」 という事になったらしいのですが
(1巻より)*5

さまざまな妖怪的存在の正体が実ははるか昔に地球にやって来ていた宇宙人だった、というのはマンガ的にはもっともらしい話であると同時に多くのフィクションでよく使われる設定でもある(影山理一『奇異太郎少年の妖怪絵日記』では「カッパ」を題材に逆にギャグのネタにされていた)。〈うに〉は、宇宙人同士の連絡網が回ってこなかったために他星への移住に取り残された宇宙人のひとりであった。

また 「ちびっ子」という設定については、猫のようなケモノ耳にしっぽ、色味の薄く明るい頭髪に子供っぽい髪型、幼い見た目に反し高齢である点(アラウンドフィフティー)など、最近の多くの萌え系妖怪キャラクターの常套が押さえられている。

 

妖怪 / 宇宙人キャラクターと〈懐かしいカタチ〉

編み笠を被り赤い着物にフリルのスカート、ブーツという〈うに〉の出でたちは、スカートとブーツはともかくとしても、おそらく「妖怪」らしく見えることを意図してデザインされているものと想像される(フリルのスカートとブーツは「妖怪」を連想させる要素とはいえないが、4コママンガのコマ割りの性質上キャラクターの腰から下が画面に入ることは少なく、読んでいてそれほど意識される点ではないためあえて例外的に扱う)。このようなデザインはどのような理由に起因するものか。そもそも笠と着物で何となく「妖怪っぽく」見えてしまうのはなぜか。

京極夏彦や菊地章太によれば、妖怪は懐かしさを感じさせる存在であるという。

京極夏彦は通俗的"妖怪"のイメージを満たす条件として以下の3つを挙げている(『妖怪の理、妖怪の檻』)*6

 A・妖怪は"前近代"的である。
 B・妖怪は"(柳田)民俗学"と関わりがある。
 C・妖怪は"通俗的"である。

そのうえで、「"妖怪"は懐かしいものである」「"妖怪"はA~Cの条件を満たす(それぞれの)そうした場所――現実には存在しない観念上の故郷、観念上の思い出――それぞれの原風景の中に住んでいる(に相応しいだろう)モノどもなのです」*7と定義する。

文庫版  妖怪の理 妖怪の檻 (角川文庫)

文庫版 妖怪の理 妖怪の檻 (角川文庫)

 

 

 菊地章太は「なつかしさにつながっている──現在の否定としての妖怪の存在理由」(2015年)において次のように述べている。

宇宙人は未来からやって来るタイプである。空飛ぶ円盤のイメージはいつだって近未来型である。しかし、妖怪はちがう。その反対である。過去からひょっこり出てくる。ひと昔もふた昔もまえの世代を体現している。だからこそ、かえって今を否定することができる。現在の秩序や常識をくつがえす別の価値観をたずさえているのである。*8

 ここでは、宇宙人=未来のイメージ・近未来風の姿、妖怪=過去のイメージ・古風な姿と両者が対置されている。

もちろん上述の主張に対し、妖怪は本当に「懐かしいもの」と言い切れるのかどうかとか、宇宙人を「未来からやってくるタイプ」とくくってしまうのはいささか大雑把に過ぎるのではないか、という指摘をすることもできるかもしれない。ただ、こと近年のフィクショナルな対象を考えるにはある程度有効な指標だと考え、これらを前提として『うにうにうにうに』のキャラクター造形に対する解答を示してみたい。

たとえば「宇宙人」であり「妖怪」でもある〈うに〉というキャラクターの、着物に編み笠姿という造形は京極夏彦のいうところの〈懐かしいカタチ〉*9に当てはまるものであるといえるだろう。

そのような意味において、〈うに〉のデザインは宇宙人らしさよりも妖怪らしさが強調されている(でも、うにの姉の〈なまこ〉は、さらしにジャージ着て原付バイクで登場するんだよな)

妖怪は〈懐かしいカタチ〉をしている。妖怪の正体は地球に来た宇宙人である。ならば、その宇宙人も〈懐かしいカタチ〉をしているかもしれない。

〈うに〉というキャラクターの造形には以上のような企図を読み取ることができるのではないだろうか。

 

「妖怪」兼「宇宙人」を受け入れるための作品世界

『うにうにうにうに』の世界において「妖怪」の正体は「宇宙人」であり、〈うに〉は宇宙人らしさよりも妖怪らしさがより打ち出されたされたキャラクターである。では、物語の主人公でもある〈うに〉自身の本質、拠りどころ、起源は何なのか。それがどうもはっきりしない。

〈うに〉の意識は物語が進むにつれて「帰りたい」→「帰りたくても帰れない」→「なんだかんだ言って帰らない」→「帰りたくない(帰ることが自由と思えない)」と変化している。

帰りたいと言いつつそのジツなかなか帰らない(帰りたくない)。そのように思っていても、離れた故郷をなつかしく想わずにはいられない。それはいわゆるノスタルジアの心情であり、〈うに〉自身のノスタルジアは故郷である宇宙に向いているといえるだろう。

(このノスタルジア(なつかしさ)はあくまで「宇宙人」としての〈うに〉の心情である。河内家に来る以前、「妖怪」としての〈うに〉が地球のどこでどのように過ごしていたのかということは――たとえば、いかにもノスタルジックな田舎で妖怪的な活動をしていたのかもしれないというようなことは――物語の中でまったく描かれていない)。

〈うに〉は物語の前半こそ「かえりたい」と繰り返し訴えるのだが、作中において彼女の帰るべき故郷の姿はひじょうぼんやりとしている。〈うに〉と〈なまこ〉の姉妹は作中で頻繁に故郷の父親と矢文(「うちゅうデンポー」)で手紙のやりとりをする。しかし地球にやって来た姉〈なまこ〉以外の家族がどのような姿をしているのか、また彼女たちの故郷が具体的にどのような光景なのかという描写は一切ないのである(それを言ったら河内家の父母が家にいない理由もとくに語られないのだが...)。〈うに〉は漠然と「うちゅうにかえりたい」と言うだけで、はたして特定の母星があるのかすら曖昧だ。
ストーリーの中心となるのはあくまで河内家のひとびととの楽しくも少しずれた日常であり、全編に渡って物語のフィールドがそこから動くことはないのである。

 

この日常系補正とでもいうべきストーリーの強制力は作品のSF設定にも働いている。単行本第2巻において、それまで不在だった次女〈河内サツキ〉が登場する。彼女はフランスで宇宙の研究をしており、お盆のため実家に帰省してきたのだ。そしてこの〈サツキ〉によって宇宙人〈うに〉に関する他者視点の情報がはじめてもたらされる。

彼女は〈うに〉が「ニャルニャロ型宇宙人」だと指摘し、以下のように語る。

「ニャルニャロ型宇宙人は猫のような耳を持ち 色素はうすく… 青い目をした人型の宇宙人です! 知能は極めて高く狡猾な性格で 心無い種族ゆえにその存在は一般人には秘されているのです! 今すぐ追い出すべきです!」

(2巻より)*10

 しかし新展開を予感させた〈サツキ〉の到来も、彼女が〈うに〉をかわいらしい愛玩対象かつ観察対象として受け入れてしまうことにより結局なあなあになってしまう。

 

日常系とかわいらしさがすべてにおいて優先する。河内家のひとびとは〈うに〉がかわいいがゆえに手放したくない。最初はそこから脱出したかった〈うに〉も周囲に甘やかされているうちに次第に馴染んでいく。そうして、〈うに〉という本来異質な存在を強制的に溶け込ませる舞台が成り立っていく。作者があとがきで記しているように、『うにうにうにうに』という作品の主眼はまさに「うにちゃんとどうやって遊ぼうかな?」*11というところにあるといえる。そのためには、故郷がどこであるのか、況して本質が妖怪か宇宙人かという設定のあれこれはストーリーから後退してしまうのである。

 

オチはない。

 

 

 しかしいわゆる「民俗学っぽい」(と言ってよいのかわからないが)イメージで見られる妖怪キャラクターが読み解かれるキーワードとして現状求められているのが「いま」でも「ここ」でもないというのは皮肉だと思わずにはいられない(どの口が言うかという話ではあるが...)。

 

*1:"まんがタイムきらら - 作品紹介ページ - まんがタイムきららWeb" http://www.dokidokivisual.com/comics/book/past.php?cid=936

*2:青田めい『うにうにうにうに 1』(MANGA TIME KR COMICS)、芳文社、2014年、9頁

*3:言うまでもなく、元ネタは「袖引き小僧」。

*4:青田めい、前掲書、12頁・20頁

*5:青田めい、前掲書、12頁

*6:京極夏彦『文庫版 妖怪の理、妖怪の檻』(角川文庫)、角川書店、2011年、352頁

*7:京極夏彦、前掲書、354頁

*8:菊地章太「なつかしさにつながっている──現在の否定としての妖怪の存在理由」、小松和彦編『怪異・妖怪文化の伝統と創造 ウチとソトの視点から(国際研究集会報告書 第45集)』、国際日本文化研究センター、2015年、19頁

*9:京極夏彦、前掲書、449~553頁

*10:青田めい『うにうにうにうに 2』(MANGA TIME KR COMICS)、芳文社、2015年、46頁

*11:青田めい、前掲書、119頁

吸血鬼と汗と異種族共存、および喰わず女房 : 石川博品『ヴァンパイア・サマータイム』

 

妖怪小説として読む(?)、石川博品『ヴァンパイア・サマータイム』。

 

 『ヴァンパイア・サマータイム』は地球の人口の半数が人間、もう半数が吸血鬼という世界を舞台に設定するライトノベルである。この作品世界の人間と吸血鬼は決して敵対しているわけではないが、両者の社会は昼と夜とで別たれている。二つの社会は一般のひとびとにとっては交わることがない。しかし夏休みのあいだズルズルと昼夜逆転になってしまう男子高校生(主人公)の生活は、吸血鬼が暮らす夜の世界と徐々に重なっていく。

他のヴァンパイアものにあるような派手なアクションシーンは登場しない。それどころか物語の中盤あたり主人公はほとんど自宅で寝ているかボーっとしているだけなのだが、だというのにこんなに面白い。

 

吸血鬼と汗

読んでいて顕著なのは雨、血、涙、唾液などの湿り気、とくに汗の表現である。作中では人間・ヨリマサと吸血鬼少女・冴原(さえはら)の互いの汗への感じ方が対比的に描かれる。

“汗を吸って冷たくなった制服のワイシャツが不快だったが、自分にはそれがお似合いだとヨリマサは感じていた。どうせならどこまでも駄目になってしまいたかった。”*1

“今日も彼は血のにおいを発していた。商店街を歩いていると、汗ばんだそのにおいがいっそう濃くなる。ついついそばに寄ってしまう。血は汗に溶けるのだろうか。彼のにおいを嗅いで自分もまた熱くなる。彼はそれに気づくだろうか。彼は自分の体からどんなにおいを嗅ぐだろうか。”*2

“彼女の肌は冷たく、濡れていた。吸血鬼も汗をかくのだ。ヨリマサの熱い肌で溶けているのかもしれなかった。触れ合う肌が湿っているのは、雲が雨を降らせて地面を濡らすことよりずっと謎めいていた。ふたりにしかできないことだと思った。”*3

“雨とは全然濡れ方がちがった。雨宿りしていて彼の腕に触れてしまい、全身から汗が吹き出した。彼の肌も汗ばんでいた。それに甘えて冴原は汗まみれの身体を彼に押しつけた。彼の温度が快かった。”*4

夏の夜の湿った空気、汗ばんだ衣服の感触が肌に伝わってくるような文章が秀逸。全編にわたってしっとりとした雰囲気に満ちた恋愛小説となっている。

 

ところでゼロの使い魔〉シリーズには「汗と血液は成分が同じだからと言って美少女吸血鬼に体中をペロペロさせる」という、ちょおま、天才かよ…っつー展開があるそうだが、残念ながら未読*5

烈風の騎士姫 (MF文庫J)

烈風の騎士姫 (MF文庫J)

 

 

 

吸血鬼と異種族共存ストーリー

 妖怪をはじめとする異種族と人間が共存する世界を描く伝奇ファンタジーにおいて、人間でない存在を社会のマイノリティとして置き、彼らが人間社会でどのように生きていくかという点をテーマとするストーリーはしばしば見られるものである。はじめは特別視されていた彼らが主人公サイドとの交流を通して次第に受け入れられていく。そういった過程そのものがストーリーの主軸となる作品は多い。

それ系の作品をディスるのではないが、一方、『ヴァンパイア・サマータイム』ではあとがきで作者自身が述べているように、人間も吸血鬼も特別な存在とはしていない。主人公とヒロインの視点が交互に展開することで、昼と夜を隔てた2人の恋愛模様が当たり前のものとして描写される。みな特別な存在でないゆえに、ともに生きることはかくも悩ましくもどかしい。誰かと共有できる時間はずっとは続かない。だが、ひとりきりの時間もまた永遠ではなく、きっとどこかで誰かと重なっている。そのような共存することの切なさみたいなものが、人間と吸血鬼という2つ世界の関係性からうつし出されている。

 

喰わず女房

“『私なら、血なんか吸わないってウソつくね』

「この前吸ってるとこ見られたじゃん」
『いっそ米も食わないっていうわ。こういう女に男は弱い。もはや結婚秒読みでしょ』
「それ実は妖怪だったていうパターンじゃん」”*6

本編288頁より。 石川博品作品は本作品に限らずちょいちょい妖怪ネタ(というか民話ネタ)をはさんでくる気がする。

 

 

 

メモ:『刀剣乱舞』の「付喪神」設定について

2015年1月14日からサービスを開始したDMMゲームスのオンラインゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』。

ゲーム中に登場する「刀剣男士」は「付喪神」であるという設定がされているというので、とりあえずメモ。

 

ゲーム登録時のOP画面キャプチャ↓

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“西暦2205年。歴史の改変を目論む「歴史修正主義者」によって過去への攻撃が始まった。”

ゲーム開始2行でこのインパクト。つかみはばっちりである。

 

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“時の政府は、それを阻止するため「審神者(さにわ)」なる者を各時代へと送り出す。” 

23世紀の未来世界設定が語られた直後に登場する「審神者」という古風な言葉。

 

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審神者(さにわ)なる者とは、眠っている物の想い、心を目覚めさせ、自ら戦う力を与え、振るわせる、技を持つ者。”

審神者、未来政府のエージェントにして時間航行者で超能力者。

 

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“その技によって生み出された付喪神(つくもがみ)「刀剣男士(とうけんだんし)」と共に歴史を守るため、審神者(さにわ)なる者は過去に飛ぶ――。”

すでに前提となる要素が山盛りだが、この記事で注目したい「付喪神」という語はここで登場する。

 

審神者(さにわ)」(プレイヤー)によって生み出された“付喪神”=「刀剣男士」という設定。

キャラクターの属性に“付喪神”という具体的な設定をするのは、同じDMMのオンラインゲーム「艦隊これくしょん艦これ~」 が「艦娘(かんむす)」の出自を曖昧に設定しているのと対照的である。これにより「刀剣男士」には、単に擬人化・萌え擬人化というだけでなく、フィクションにおける妖怪キャラクター、付喪神キャラクターの文脈が生じる。

ここ数年で「付喪神」の通俗的な意味合いは急速に拡大している。とはいえ、『刀剣乱舞』内での「刀剣男士」の描かれ方は、自明の、一般に広く理解される“付喪神”イメージの範囲に収まるかというとそうとも言えない(まあ、人間の形態をとって戦う付喪神キャラクターとして想定される例は、フィクションの領域では、もはやそうめずらしいものではないが)。

OPの文中では「審神者」「歴史修正主義者」「刀剣男士」の語が「」付きになっており、それらがゲーム内の用語であることが示されている。それに対し、“付喪神”についてはとくに説明がなく、自明の語として扱われているようである。

一応、「審神者」についての説明から、「審神者」によって、眠っていた“想い、心を目覚めさせ”られ、“自ら戦う力を与え”られ、かつその力を“振るわ”させられる“物”=「付喪神」と解釈できるが、現時点ではそれ以上のことは読み取れない(...し、ゲームの性格上、今後これ以上の意味が提示される可能性もあまりないような気はする)。